リタイアする前、仕事をしているときに、一緒に仕事をしている者を「信用」していないと指摘されることがありました。
自分としては、当然、相手を「信用」しているからこそ仕事の一部を任せるなどしているのですが、そのようには思ってもらえていないことがありました。
そのようなときには、いちいち相手の指摘を否定してまで「信用」していると思われる必要はないと考えたので、受け流すようにしていました。
仕事では、自分はクライアントに対して最終的な責任を追う立場にいたので、常に何かあったときには、自分がリカバリーをできるように配慮して行動をしていました。
今から考えるとそうした行動が、「信用」していないと思われることに繋がっていたのだろうと思います。
「信用」して仕事の一部を任せるなどしている以上、きちんとやってくれるだろうとの「期待」もしているのですが、常に自分の望んでいるように、あるいは全くミスなくやってくれるだろうといった過度な「期待」はしないようにしていました。
このような過度な「期待」をしていなかったことも、相手からすれば「信用」されていないというように映っていたのかもしれません。

リタイアしてからも、人に何かをお願いしたり、頼むときの基本的なスタンスは変わっていません。
今でも、相手に対して過度な「期待」をすることはありません。
ただし、普段の生活では、仕事をしていたときのように誰かに対して自分が最終的な責任を負わなければならないというような局面はほとんどありません。
だからなのか、お願いした相手などから人を「信用」していないと指摘されることはなくなりました。
おそらくは、普段の生活でお願いするようなことは、仮にそれが自分の望んだ通りにやってもらえなくても、少々ミスをされても特に問題はないので、通常の「期待」をして行動していれば、「信用」してお願いしていると思ってもらえるのでしょう。
普段の生活で、過度な「期待」をするということになると、お願いしたことを完璧にやってくれることを望むとか、お願いした以上のことやってくれることを望むといったことになりますが、そもそもそういう場面はあまりないように思います。
しかし、そのような過度な「期待」をされる方が少数ながらおられるため、リタイアしてからは、逆に「『信用』して頼んだのに……」といった苦情を受けることがたまにあります。
そもそもが、そんなに過度な「期待」をされるような関係性もなく、またこちらにはそのような過度な「期待」には応える義務もないので、そのような場合には、一言「ゴメンね」とだけ言って済ませるようにしています。
結局のところ、仕事においても、日常生活においても、「信用」「期待」とをどのようなものだと考えるのかは、人それぞれなのかもしれません。
ただ、少なくとも、自分はこれからも、過度な「期待」はしないようにしていくつもりです。
コメント